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2016年10月17日

  • ディレクターズノート

ディレクターズノート002
未来を「発見」する。

「未来の発見!」とはなんだろう?

このテーマに託した想いを述べるとすれば、少なくともトリエンナーレが未来を発見すると言いたいわけではないし、アーティストが未来を発見してくれるということでもない。未来を発見するのは私であり、あなたなのだ。未来とは自分事であり、他人事ではない。

しかし、そもそも未来とはなんなのか。時間軸の先の方に「未来」が存在するような気になるときもあるだろうが、時間軸そのものは想像の産物にすぎない。時間の単位と言ったって、比較的安定した振動現象を物差しに使っているだけだ。

未来は今現在の私たちの想像のなかにある。論理的推論や予感や期待や、いろいろなことが干渉してくるが、要はわれわれの想像である。一方、過去の方も想像であると言っていい。記録や痕跡から推論し、自分自身の過去であれば、今この瞬間に再合成され続ける記憶も大きなパートを占めている。確固とした過去が現存しているわけではない。

 

問題なのは、今、この過去、未来の基盤たる私たちの想像力が萎縮を始めていることだ。

『スターウォーズ/帝国の逆襲』のなかで、ヨーダはこんなことを言っていた。「未来を見るのは難しい。未来はいつでも動いている」

 

想像力が萎縮すると、未来は動きを止めてしまう。予測するのはたやすくなるが、それはつまり可能性の幅が狭まっていくということだ。動きの幅が小さくなり、予想した通りの世界が出現しやすくなっていく。他者の未来が自分の想像のなかに移植され、みんながたったひとつの未来を夢見るようになっていくかもしれない。私はそんな「未来」を危惧するわけだ。

未来の可能性を生き生きと広げていくためには、私たちの想像の力を活性化しなければならない。夢見る力を刺激しなければならない。それを私たちが生きる現場で、つまり生活の現場、この生活都市のど真ん中で試してみること、これが私にとってのさいたまトリエンナーレのミッションであったと言えるだろう。

 

参加してくれたアーティストたちは、この意図を深く理解してくれて、素晴らしい作品を生み出してくれた。未来と言いながら、彼らはこの現実に重なるパラレルな世界を夢想したり、「もしも、こんなことが起こったら」と問いかけてみたり、今見ているこの世界や日常をほんの少しずらして眺めてみたり、つまりはみんなが今現在の見直し、問い直しをやっている。私たち自身がそれぞれの未来を発見する際の、誘いとなる問いかけをそっと提示している。「未来の発見!」とは、とりあえず立ち止まり、身の回りを再点検してみる営みであった。