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2016年10月24日

  • ディレクターズノート

ディレクターズノート003
魔術としてのアート

 すでに多くの人が語っていると思うが、私もアートは魔術のようなものだと思う。芸術が魔術の一種なのか、魔術が芸術の一種なのか、それほど近い関係にあるとさえ思う。

 白川静の『字統』によれば、「術」という漢字に含まれる「行」の部分は十字路のかたち、「行」に挟まれて真ん中にある「朮」の部分は呪霊をもつ獣のかたち。術とはこの朮を用いて、おそらくは旅の安全を祈って道路で行った呪儀を意味する。

 例えばシンデレラの物語で、シンデレラの名付け親たる魔法使いは、杖のひとつきでかぼちゃを馬車に、ネズミを馬に、トカゲを従者に変えてしまう。その力は真夜中までしか続かないが、とにかくシンデレラは、ここからまた別の人生を歩み出すことになる。

 アートとは一種の魔術だ。

 何気ない仕草、筆の一振り、選ばれた画角、叫びと囁き、なんでもいい、それが引き金となって、目の前の現実の、隠されていたもうひとつの姿が鮮やかに現れる。つまらぬと思っていた日常の、見慣れた事柄や風景が、突如、キラキラと輝きはじめる。あるいは憧れの対象が、ただのぬいぐるみであったと知る。

 たとえそれが真夜中を過ぎれば消え去る幻であったとしても、けっして侮るべきではない。心の姿勢が変わるなら、今を生きるこの場所、この生活、この世界の細部に意識が向かい、他人から与えられた未来ではなく、ひとりひとりが自分のこととして世界に関わりはじめる。

 この心の変容の瞬間を、私は「未来の発見!」と呼びたいのだ。

 アーティストの力を借りながら、もしもこんな現実があったらと、私たちのなかで眠っていた想像の力が羽ばたきをはじめる、そんな変容の瞬間を。

 脱魔術化が徹底的に進んだ今日において、アートは社会がかろうじて公認する唯一の魔術的機能ではないだろうか?私は特に、封印された場所の力を解き放つためにこの力を用いたい。今や場所の精霊たちは、私たちの環境一様化の力に押し倒されて、ほとんど沈黙を守っている。アートという魔術には、その封印を解く力があると思うのだ。そういえば、急に思い出した。2002 年8月3日、とかち国際現代アート展『デメーテル』(http://www.demeter.jp/j/info/index.html)のインターゾーンで行った、人類学者今福龍太との対話のタイトルは「封印された呪文を解く」というものだった。すでに何を話し合ったのか、細かな記憶はないけれど、私の関心は一貫しているのだろう。あるいは帯広競馬場、山下埠頭、別府といった場所たちが、私をそのような確信に導いてきてくれたのか?

 場所の精霊たちと対話をしたい。それが私の深い欲望なのだと思う。アートはそれを可能にしてくれる。