さいたまトリエンナーレ2016は参加する、共につくるトリエンナーレだと言ってきた。しかしよく考えると、この「参加」という意味をどう捉えるかは、とても一筋縄では行かない問題だ。今では大勢が集まって楽器を演奏する、演劇に出演する、色を塗ったり絵を描いたりするといった「参加型イベント」ばかりが強調される。もちろんこうしたイベントは重要だが、参加の本質がここにあるわけではない。「参加型イベント」も、多様な参加の現れかたのひとつなのだ。
このことについてはプロジェクトディレクターも含め、いろいろ議論してきたが、参加の仕方とは実に多様である。アーティストと作品の構想について話し合い、自分の意見を述べるというのもプロジェクトへの参加だし、素材を提供したり、細工を施したり、制作を実際に手伝うのも参加。あるいはそこで起こっていることを他者に伝えること、つまり主体的な広報もまた参加の一形態だ。いやそれどころではない、具体的な労力や素材の提供だけでなく、金銭的な支援、さらには応援というかたちもある。これは芸術祭に限った話ではなく、伝統的な祭りを支える構造だろう。
私自身、話を簡単に済ますために「鑑賞ではなく、参加」などと言ってしまうが、これも間違っている。作品と主体的に向き合い、自省する鑑賞は、まずもって参加の基本形だと言える。参加の対義語は鑑賞ではなく、無関心なのだ。
当然すぎる話だが、参加とは心の姿勢。他人事としてではなく、自分の事として、主体的に対象に関わることだ。そして心の姿勢だから、量で測れない。そこが難しいところだろう。
さいたまトリエンナーレ、プレイベントのリレートークでアンドレア・ポンピリオは、多くの市民によって支えられているニューヨーク、セントラルパークを例にあげて、こんなことを言っていた。サポーターたる市民はこの公園を「マイ・パーク」と呼ぶ。このトリエンナーレも「マイ・トリエンナーレ」と呼ばれるようになるといいね。参加とはそういうことだ。いつの日にか、さいたまトリエンナーレが本当にそうなったら素晴らしい。