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2016年12月10日

  • ディレクターズノート

ディレクターズノート009
岩槻へ

 別所沼公園まで来たので中浦和の駅に出て、埼京線で大宮へ。ここから東武アーバンパークラインに乗り換えて岩槻に出るが、このエリアは今回トリエンナーレで最もプロジェクトを集中させた場所、かつ力作ぞろいなので、一つ一つのプロジェクトについて語っていく時間はなさそうだ。

 10年前に閉鎖された埼玉県立民俗文化センターを初めて訪れた日のことはよく覚えている。中に入れず、道の外から覗き込むだけだったが、背丈が1メートルほどに伸びた雑草の中、白亜の列柱が並んでいて、ここはどこなんだと強烈に戸惑う。一瞬、ポルトガル山中のローマ時代の遺跡を思い出したが、それにも似ていない。そう、それは少しだけ宙に浮かんだような、どこでもない場所に思えた。

 国道16号線は東京という巨大都市の外縁を走っている。その近く、時空を超えたエアポケットのような場所がある。そのこと自体が私には非常に象徴的に思えた。しばらく佇んでいると、その場所が私を使えと囁いてくる。そして、私はこの場所を選んだ。

 旧民俗文化センターで展開されたアートプロジェクトは、結果論ではあるが、私たちが生きる現実世界を少し別の角度から眺めて見て、思いもかけない可能性を引き出すもの、もしもこんなことが起こったらというフィクショナルな世界の見直し、問い直し、あるいはこの世界と重なって存在する、もうひとつ別の世界への入り口を提示するもの、そんな作品が多かったように思う。

 ここを訪れた人はまず、中庭に並べられたマテイ・アンドラシュ・ヴォグリンチッチの1000個の枕に迎えられるが、私にはこの風景がとても暗示的に見える。枕とは夢と現実を結ぶ装置、二つの世界に私たちを行き来させる船とも言える。ここには異なる1000の夢への入り口が開いているのだ。室内に入り、様々な平行世界を巡り、最後にはアピチャッポン・ウィーラセタクンの夢と現実の境界領域に至る。そして外に出れば、目の《Elemental Detection》。懐かしくもあり、記憶の奥底で見たことがあるような、しかし絶対にありえない風景が、今度は目前の現実に広がっている。

 これら作品にはどれも単純な直線的感性はなく、異なる方向が交わる十字路性を持つ。そこに深く感銘を受けるのだが、その可能性については、いつか「芸術祭」という文脈を離れて論じてみたい。 

 岩槻には東玉社員寮で展開された《ホームベース・プロジェクト》やK邸での向井山朋子《HOME》もあり、体験の深度を深めていくにはうってつけのエリアだ。マジカルでミステリアスなツアーの終着に、私は岩槻を選ぶ。